岩波古語辞典補訂版「や」p1499(2)

>疑問詞を受けない係助詞の一つ
>もっとも古くは感動詞として、掛け声に用いられたこともある(1)。
>それが、歌謡の中で用いられ、歌の途中に投入された(2)。

>この投入の用法は、万葉集などにも見られるが、それは歌の一句としての
>音節数が不足の時で、一句の拍数を整える時に使われる(3)。

>(1)https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/350dc1604d89890309cb462f0216631c
>中大兄、子麻呂等の、入鹿の威(いきほひ)に畏(おそ)りて、
>便旋(めぐら)ひて進まざるを見て曰はく、「咄嗟(やあ)」とのたまふ。

「咄嗟(やあ)」が感動詞で掛け声らしい。
中大兄皇子が、子麻呂等が怖気づいているのを見て「咄嗟(やあ)」と声をかけた。
でも「や=あり」だから、この場合は「咄嗟(やあ)」=「居たのかい」みたいな意味だろう。

>(2)蘆原田の稲つき蟹の、や、汝(おのれ)さえ嫁を得ずとて、や、捧げては下ろし、や、
>下しては捧げ、や、かいなげをする、や

この文言も、もちろん初めて読んだけど、岩波古語辞典の編集者が、ここまで読みやすく
句読点を入れてくれたので、ここの「や」はもう「あり」としか読めない。
「あり」以外の読み方があるでしょうか。そういう意味でこの文言は素晴らしい。
「や」は「あり」の娘言素です。感動詞ではありません。

いちおう念のために、「や」を「あり」に置き換えると…

「蘆原田の稲つき蟹の、あり、汝(おのれ)さえ嫁を得ずとて、あり、捧げては下ろし、あり、
 下しては捧げ、あり、かいなげをする、あり」

「蘆はら、田んぼの稲についている蟹みたいなのが(あり)、
嫁も取れないでいる(あり)、(何かを)上げたり下げたりしている(あり)、
無駄なことをやっている(あり)」

この文章が感動を呼び起こすだろうか。文の流れから感動詞とは思えない。