岩波古語辞典補訂版「や」p1499(5)

そういう漢文の影響下に日本語が置かれた。
それで(4)を解釈したのであろう。

(4)a 嘆きつつ我が泣く涙有馬山雲居たなびき雨に降りきや
(4)b 三輪山(みわやま)を、しかも隠すか、雲(くも)だにも、心あらなも、隠さふべしや
(4)c 天の川 水底さえに 照らす舟 泊てし舟人 妹に見えきや

https://plaza.rakuten.co.jp/pinghudesu/diary/202308190000/
>嘆きつつ 我が泣く涙 有馬山 雲居たなびき 雨に降りきや
>嘆き嘆いて私の泣く涙は、そちらの有馬山に雲となってかかり、雨となって降ったでしょうか

からごころ(漢意)のこの歌を、大和心の係助詞「や」の後続部分疑問文にすると、
過去の助動詞「き」の終止形「き」を、連体形「し」にする。
「雨に降りき」を疑問文にすると

「嘆きつつ 我が泣く涙 有馬山 雲居たなびき や 雨に降りし」 「や」用言に見る場合
「嘆きつつ 我が泣く涙 有馬山 雲居たなびく や 雨に降りし」 「や」体言に見る場合

それのバリエーションで
「嘆きつつ 我が泣く涙 有馬山 や 雲居たなびき 雨に降りし」
  「雲居たなびき 雨に降りき」が疑問文

「嘆きつつ 我が泣く涙 や 有馬山 雲居たなびき 雨に降りし」
  「有馬山 雲居たなびき 雨に降りき」が疑問文

「嘆きつつ や 我が泣く涙 有馬山 雲居たなびき 雨に降りし」
  「我が泣く涙 有馬山 雲居たなびき 雨に降りき」が疑問文

「や 嘆きつつ 我が泣く涙 有馬山 雲居たなびき 雨に降りし」
=嘆きつつ 我が泣く涙 有馬山 雲居たなびき 雨に降りき か

さらにバリエーションで
「雲居たなびき」だけを疑問文にしたい時は、
連用形「たなびき」を連体形「たなびく」に変えて

「嘆きつつ 我が泣く涙 有馬山 や 雲居たなびく 雨に降りき」
  「雲居たなびく」が疑問文

「嘆きつつ 我が泣く涙 や 有馬山 雲居たなびく 雨に降りき」
  「有馬山 雲居たなびく」が疑問文

「嘆きつつ や 我が泣く涙 有馬山 雲居たなびく 雨に降りき」
  「我が泣く涙 有馬山 雲居たなびく」が疑問文

「や 嘆きつつ 我が泣く涙 有馬山 雲居たなびく 雨に降りき」
=  嘆きつつ 我が泣く涙 有馬山 雲居たなびく か 雨に降りし
  「嘆きつつ 我が泣く涙 有馬山 雲居たなびく」が疑問文

岩波古語辞典補訂版「や」p1499(4)

>「や」は終止形の下につき文の叙述の終わりに加えられた場合には、
>相手に質問し、問いかける気持ちを表す。

>この場合、話し手は、単に不明・不審だから
>相手に疑問を投げかけるものであるよりも、
>自分に一つの見込みないしは予断があることが多い。

>「雨に降りきや」と問う時、「降ったか降らなかったかわからない」のでなく
>「降ったに違いない」という見込み・予断を持ちながら、
>それを相手に提示して反応を待つのである。
>それが「か」の不明・不審・判断不能とする表現との相違である(4)。

「や」が終助詞となった場合の疑問詞の役割は、
漢文の影響があるという説に賛成だ。

日本に漢文が大量に入るようになって、
漢文の疑問詞が使われるようになった。
漢文の疑問文には疑問語を使う場合と、疑問詞を使う場合、その組み合わせとがある。

>(漢文で)疑問を表す三つの形
>①疑問詞を用いる=「何」、「胡・溪・那」、「誰・孰」など

>②疑問の終助詞を用いる=「乎・邪」、「也・耶・与・興欠」など。
> これらの終助詞は体言や連体形の後なら「か」、
> 終止形の後なら「や」と読むのが原則

> 是レ魯ノ孔丘之徒与(か)=これ、魯の孔子の門人か?、
> 王曰ク有リ説乎(や)ト=王いわく説明できるかな?
> 是邪非邪=正しいかそうではないのか、是か非か

漢文の疑問詞を「か、や」と日本語で読んでいる。
こういう漢文の読み方が、日本語にも及んだ結果が次の歌だ。

http://sakuramitih31.livedoor.blog/archives/22108722.html
>名にし負はば いざ言問はむ 都鳥わが思ふ人は ありやなしやと 在原業平
>意味
>都という名を持っているのならば、さあ尋ねよう、都鳥よ。
>私の思い慕っている人は健在でいるのか、いないのかと。

でも、こういう疑問詞の使い方、特に係助詞「や」の使い方は誤用だ。
言い方変えれば、「からごころ(漢心・漢意)」で、大和心じゃない。

係助詞「か」は先行部分疑問文で、漢文と同じだが(全く同じかわからんが)、
しかし係助詞「や」は後続部分疑問文で、
本来はドイツ語英語の決定疑問文と同じだ。

日本語では先行部分疑問文・疑問詞で係助詞「か」を使う方がわかりやすい。
平叙文の文末に「か」を付けると、平叙文がそのまま疑問文になる。
英語では平叙文の文頭に「Do」を付けると疑問文になるのと同じだ。

先行部分疑問文「か」は簡単で便利な仕組みだ。
なので日本では「か」の先行部分疑問文が主流になった。
後続部分疑問文は、複雑でだんだん使われなくなったと思う。

繰り返すけども、ただ漢文の影響で「や」を「か」の様に誤用して
「や=か」の様に誤用して、そして現在に至った…と思う。

岩波古語辞典補訂版「や」p1499(3)

>この投入の用法は、万葉集などにも見られるが、それは歌の一句としての
>音節数が不足の時で、一句の拍数を整える時に使われる(3)。

>(3)・春の野に鳴く「や」鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く
>  ・やすみしし わご大君の 恐き「や」 御陵仕ふる山科の 鏡の山に

ここの「や」も「あり」で良い。

「春の野に鳴く や 鴬なつけむと」
=春の野に鳴く あり 鴬 なつけむ と
=春の野に鳴いている鴬(を)なつかせようとしたらしい それのために

全体とし
「春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く」
=春の野に鳴いている鴬をなつかせようとしたらしい それのために 我が家の園に梅の花が咲く

接頭辞「CO- KO-」=「と、も」=「(そこ)に、(そこ)へ、(そこ)へ向かって、(それ)に対して、
(それ)を以て、(それ)によって、(それ)のために、(それ)と共に 、一緒に」

「やすみしし わご大君の 恐きや 御陵仕ふる山科の 鏡の山に」
=やすみしし わご大君の 恐き あり 御陵仕ふる山科の 鏡の山に
=我が大君の もったいなく 恐ろしいもの あり 御陵としてお仕えする山科の鏡の山に

これも「や=あり」で良い。「や」は「あり」の娘言素だ。

・春の野に鳴く「や」鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く

この歌を検索していくと、不審なところがある。
万葉仮名では「和何弊能曽能尓=わが(へ)のそのに」にだろう。
しかし読み下し文の中には「わが(や)のそのに」に変わっている。

(へ)が(や)に変わっている。
どっちが当時の正しい発音だったか、というと(へ)が正しい気がする。

「和何弊能曽能尓」の「弊」は漢音で「ヘイ」、呉音で「ベイ」
日本語で「へい、へ」と読む。だから「弊=へ、ヘイ」なのでないか。

つまり編集者が現代の解釈(や=家)に合わせて、
原文の読み下しを(へ)から(や)に変えていると思われる。

http://www.healthveymind.com/topics25.html
>23.春の野に 鳴くや鴬なつけむと 我が家の園に梅が花咲く。
>(読み)はるののに なくやうぐいすなつけんと わがやのそのにうめがはなさく
>(訳)春の野に 鳴く鶯を手なづけようとして 我が家の園に梅の花がさく。

https://www.manyoshu-ichiran.net/waka0837/
>原文 波流能努尓|奈久夜汙隅比須|奈都氣牟得|和何弊能曽能尓|汙米何波奈佐久[笇師志氏大道]
>訓読 春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く[t師志氏大道]
>はるののに|なくやうぐひす|なつけむと|わがへのそのに|うめがはなさく

https://tom101010.hatenablog.com/entry/2021/01/29/141917
>≪書き下し≫
>春の野に鳴くやうぐいすなつけむと我が家(へ)の園に梅が花咲く [算師(さんし)志氏大道(しじのおほみち)]
>(訳)春の野で鳴く鴬、その鴬を手なずけようとして、この我らの園に梅の花が咲いている。
>(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
>(注)算師:物数計算官。笇(さん)=算:数を数える。

岩波古語辞典補訂版「や」p1499(2)

>疑問詞を受けない係助詞の一つ
>もっとも古くは感動詞として、掛け声に用いられたこともある(1)。
>それが、歌謡の中で用いられ、歌の途中に投入された(2)。

>この投入の用法は、万葉集などにも見られるが、それは歌の一句としての
>音節数が不足の時で、一句の拍数を整える時に使われる(3)。

>(1)https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/350dc1604d89890309cb462f0216631c
>中大兄、子麻呂等の、入鹿の威(いきほひ)に畏(おそ)りて、
>便旋(めぐら)ひて進まざるを見て曰はく、「咄嗟(やあ)」とのたまふ。

「咄嗟(やあ)」が感動詞で掛け声らしい。
中大兄皇子が、子麻呂等が怖気づいているのを見て「咄嗟(やあ)」と声をかけた。
でも「や=あり」だから、この場合は「咄嗟(やあ)」=「居たのかい」みたいな意味だろう。

>(2)蘆原田の稲つき蟹の、や、汝(おのれ)さえ嫁を得ずとて、や、捧げては下ろし、や、
>下しては捧げ、や、かいなげをする、や

この文言も、もちろん初めて読んだけど、岩波古語辞典の編集者が、ここまで読みやすく
句読点を入れてくれたので、ここの「や」はもう「あり」としか読めない。
「あり」以外の読み方があるでしょうか。そういう意味でこの文言は素晴らしい。
「や」は「あり」の娘言素です。感動詞ではありません。

いちおう念のために、「や」を「あり」に置き換えると…

「蘆原田の稲つき蟹の、あり、汝(おのれ)さえ嫁を得ずとて、あり、捧げては下ろし、あり、
 下しては捧げ、あり、かいなげをする、あり」

「蘆はら、田んぼの稲についている蟹みたいなのが(あり)、
嫁も取れないでいる(あり)、(何かを)上げたり下げたりしている(あり)、
無駄なことをやっている(あり)」

この文章が感動を呼び起こすだろうか。文の流れから感動詞とは思えない。

岩波古語辞典補訂版 「や」 p1499

>疑問詞を受けない係助詞の一つ
>もっとも古くは感動詞として、掛け声に用いられたこともある(1)。
>それが、歌謡の中で用いられ、歌の途中に投入された(2)。

>この投入の用法は、万葉集などにも見られるが、それは歌の一句としての
>音節数が不足の時で、一句の拍数を整える時に使われる(3)。

>「や」は終止形の下につき文の叙述の終わりに加えられた場合には、
>相手に質問し、問いかける気持ちを表す。

>この場合、話し手は、単に不明・不審だから
>相手に疑問を投げかけるものであるよりも、
>自分に一つの見込みないしは予断があることが多い。

>「雨に降りきや」と問う時、「降ったか降らなかったかわからない」のでなく
>「降ったに違いない」という見込み・予断を持ちながら、
>それを相手に提示して反応を待つのである。
>それが「か」の不明・不審・判断不能とする表現との相違である(4)。

>問いかける気持ちから、命令の意を表すこともある。
>これも「や」の見込み・予断の表明とすることと一連の用法である(5)。
>そして、已然形の下についた場合は反語になる(6)。

>反語とは否定的に問い返すことによって否定する表現である。
>結局は自分の否定的な断定を押し付ける語法である。

>また、平安時代になると、反実仮想を表す助動詞「まし」に「や」が複合して
>「ましや」となる(7)。

>これも「まし」によって事実に反することを想定し、それに「や」を加えることによって
>自分の見込みを表明する言葉で、現代語でに訳せば「…ないだろう」に当たるものである。
>このようにして「や」は次第に「か」と共通の意味を持つようになった。

>しかし、全く不明・不審であるとして疑いを発する役目を役目を持っていた「か」の
>強い疑問表現は奈良時代すでに次第に好まれなくなり、代わって「や」が愛用されて、
>「や」を使うことが多くなり、平安時代になると「か」に代わって
>「や」が広く問いに使われる勢いとなった。

>「か」は疑問詞「誰」「いつ」「いづく」などと協同して使われる場合に
>限られるようになり、「や」が平安時代和文には多く使われるが、
>これは単に不問・不審として投げ出すのでなく、
>「…の見込みがあるがどうですか」と相手に問いかける気持ちが濃厚である。
>この方が柔らかで優しい表現とされたんであろう。

>しかし、世相が険悪で、強い者が弱い者を圧倒する気風の行き渡った室町末期になると
>口語の世界では細かく相手に持ち掛けて問う「や」を使うよりも、
>直截的な「か」を使うことが多くなり、「や」を圧倒する勢いとなって、
>現在では「や」は衰え、「か」がもっぱら質問にも疑問にも使われている。

>以上のように使われた「や」は、はじめ文節の切れ目ならばどこにでも入れたので、
>文末だけでなく、文中の句の切れ目にも入るようになり、いわゆる連体止めの
>係り助詞の仲間入りをする。

上代語「はも」(8)

「笹の葉に降りつむ雪のうれを重みもとくだちゆく我がさかりはも」

http://www.milord-club.com/Kokin/uta0891.htm
>891 笹の葉に  降りつむ雪の  うれを重み  もとくだちゆく  我がさかりはも
>うれ ・・・ 葉の先の方
>もと ・・・ 本体
>くだちゆく ・・・ 傾いてゆく (降ちゆく) 

>笹の葉に降り積もる雪が先の方が重いので、本体が傾くように、
>徐々に年月の重さで下降気味になる自分の盛りの時期であることか、という歌。

>ただいるだけでも重力で気力/体力が落ちてゆくような気分を詠ったものであろう。
>この歌と同じ 「笹の葉」と 「~を~み」という表現を使った歌に次の躬恒の歌がある。
>「~を~み」という表現のある歌の一覧は 497番の歌のページを参照。

https://sakuramitih31.blog.fc2.com/blog-entry-5417.html
>意味・・葉に降り積もった雪のために、笹は先端が重く
>    なり、根元の方が傾いてゆく。このように、私
>    の盛りも下り坂になったとは悔しいことだ。

>    雪が解ければ、笹の葉はまた元通りになるよう
>    に、私もいつかきっと勢力を盛り返したいもの
>    だ。
> 注・・うれ=末。木の枝や草葉の先端。
>    くたち=降ち。盛りを過ぎること。衰える、傾
>     く。
>    はも=上接する語を強く引き立てる語。
>出典・・古今和歌集・891。

これも、文末の「はも」を「あり、共にあり」に置き換える。

「本くだち行くわがさかりはも」
=本くだち行くわがさかり+はも
=本くだち行くわがさかり+あり、共にあり
=本くだち行くわがさかりあり、共にあり

全体としては

「笹の葉に降りつむ雪のうれを重みもとくだちゆく我がさかりはも」
=笹の葉に降りつむ雪のうれを重みもとくだちゆく我がさかり+あり、共にあり

笹の葉に降り積もる雪が、(葉)先の方が重いので、根本が傾く、
私の盛りも(その笹と)共にあり、(そのように)あります。

いろいろ例に和歌を並べたが、上代「はも」は…
「はも」
=はも
=は+も
=あり+共に+(動詞/名詞)

「は=あり」、「と、も=共に、一緒に=出自は接頭辞」だと思う。
公理(1)と公理(3)から上代「はも」の新しい解釈ができた。

こういうことを言っているのは、私だけでしょうから、
これに名前を付けたいと思う。これを「はも」の定理と呼びます。

公理(1)+公理(3) → 「はも」の定理

「はも」は食い物でもあり、親しみやすい定理名称になりましたw

 

上代語「はも」(7)


https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2723
>「春日野の雪間を分けて生ひ出で来る草のはつかに見えし君かも」

>「春日野に積もった雪の間から萌え出てくる草の姿はほんのわずか。
>わずかに姿を見せたあなただった」という意味です。

>この場合、「春日野の雪間を分けて生ひ出で来る草の」までが序詞です。
>わずかにという意味の「はつかに」という言葉を導き出す序詞になっています。
>この序詞は、確かに「はつかに」を導き出すためだけに用いられていますが、
>全くこの場と関係ないわけではありません。むしろ非常に深く関わっています。

https://manapedia.jp/text/2182
>春日野の雪の間を分けて生えて出てくる草がわずかに見えるように、
>わずかに見えたあなたの姿であったよ。 

https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/waka08
>訳
>春日野の残雪の間をおしわけてわずかに萌え出てくる若草、
>その若草のように、ほんのわずかにお見かけした初々しいあなたでしたよ。

https://ameblo.jp/y-hono-n-1506/entry-11824772806.html
>意味
>春日野の残雪の消え間から、萌え出てくる草(の芽)がわずかに見えるように、
>ほんのちらりとだけ姿が見えたあなたよ

この歌の文末の「はも」を「あり、共にあり」に置き換える。

「見えし君はも」
=見えし君+はも
=見えし君+あり、共にあり
=見えし君あり、共にあり

全体として
「春日野の雪間をわけて生ひ出でくる草のはつかに見えし君はも」
=春日野の雪間をわけて生ひ出でくる草のはつかに見えし君あり、共にあり
=春日野の雪間をわけて生ひ出でくる草が ちらりと見えたそこに 君の姿が共にあります

草のはつかに見えし君はも