上代語「はも」(6)

https://sanukiya.exblog.jp/29647646/#goog_rewarded
>3569 防人(さきもり)に立ちし朝明(あさけ)の金門出(かなとで)に
>     手離(たばな)れ惜しみ泣きし児(こ)らはも
> ※「立ちし」出発した。旅に出た。
> ※「朝明」夜明け方。
> ※「金門出」門を出ること。門出。
> ※「手離れ」手から離れること。遠ざかること。
> ※「児ら」東国方言。女性を親しんで呼ぶ語。
> ※「はも」強い詠嘆。~よ。
>(訳)防人として旅に出て行く 夜明けの門出のあのときに
>   手から離れることを惜しんで 泣いていた娘(こ)よ わが妻よ

http://hiro-ks.jp/manyou/manyou/MK14-3569.htm
>・防人に 立つ朝明けの 門出にて 別れを惜しみ 泣いた妹子よ

https://manyoshu-japan.com/10009/
>(訳)防人として出発するにあたり、朝明けの門を出るとき、
>   つないだ手を離す際、それを惜しんで泣いたよな、あの子はなあ。

この歌の文末の「はも」を「あり、共にあり」に置き換える。

「防人に立ちし朝明の金門出に手離れ惜しみ泣きし児らはも」
=防人に立ちし朝明の金門出に手離れ惜しみ泣きし児ら+あり、共にあり
=防人に出発する 明け方の門出に 別れを惜しんで 泣いた女性?あり、共にあり

それぞれの訳から想像できるシーンは、どの訳でも変わりないだろう。

別離の場面

 

上代語「はも」(5)

https://sanukiya.exblog.jp/29616767/
>3513 夕さればみ山を去らぬ布雲(にのぐも)のあぜか絶えむと言ひし児(こ)ろはも

> ※「夕されば」夕方になると。
> ※「あぜか絶えむ」絶えてしまうことはない。〈か〉反語。
> ※「布雲」布を敷いたようにたなびいている雲。〈にのくも〉は東国方言。
> ※「児ろ」女性を親しんで呼ぶ語。〈ろ〉接尾語。

>夕べになると布敷くような 雲が山から離れない
>私も離れて行かないからと あの娘(こ)は言ったてくれたのに

https://art-tags.net/manyo/fourteen/m3513.html
>意味: 「夕方になると山から離れずにたなびいている布雲(にのぐも)のように、
>どうして絶えることがありましょうか」と言ったあの娘は。。。

>意味: 「布雲(にのぐも)」は布のように広がって続いている雲のことで、
>「(二人の間が)切れない・絶えることが無い」ことのたとえに詠み込まれています。

https://manyoshu-japan.com/10065/
>夕方になるとみ山にかかった布雲のように、なぜか去らず耐えられない、
>とあの子は言ったよな。

https://miebaba.hatenablog.com/entry/20170326
>夕方になると山にたなびいて離れない布雲のように、
>何であなたとの仲が絶えることがありましょうか
>と言ったあの子は、あぁ (どうしていることであろう)。

いろんな解釈がありますね。
「はも」に「あり、共にあり」を代入すると

「言ひし子ろはも」
=言ひし子ろ+はも
=言ひし子ろ+あり、共にあり
=言ひし子ろあり、共にあり

全体としては
「夕さればみ山を去らぬ布雲(にのぐも)のあぜか絶えむと言ひし子ろはも」
=夕さればみ山を去らぬ布雲(にのぐも)のあぜか絶えむと言ひし子ろあり、共にあり

前方部分疑問文、この場合は反語だけど。
「あぜか絶えむ」=絶えることがありましょうか=絶えることがない
=あぜ+か+絶え+む
・あぜ=なぜ、名詞
・か=共にあり?動詞
・絶ゆ=絶える、下二段、未然形
・む=…だろう、推量助動詞、未然形接続、連体形

あぜ+か+絶えむ…あぜ(なぜ)と「絶ゆむ(絶えるでしょう)」が共にあり?…疑問文
あぜ+絶ゆむ+か…あぜ(なぜ)と「絶ゆむ(絶えるでしょう)」は共にあり…平叙文

この歌の私の解釈は
「夕方になると み山にかかる布雲が なぜ絶えるでしょうか?と言った子が 共にいます」

つまり
「み山?にかかる雲のように、あなたから離れませんと言った子が共にいます」
という風になる。

作者不詳だから「み山」がどこかわからない。
私が誰であなたが誰かもわからない。

万葉集に採用されるくらいの和歌というか
そういう地位と立場の人の歌だから、わからないはずがない。
わざと消したのでしょうね、たぶん。

上代語「はも」(4)

文中の「はも」の二首は…
「昼はも日のことごと夜はも夜のことごと」だけど、このフレーズは

https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=155
>やすみししわご大君の恐きや御陵仕ふる山科の鏡の山に
>夜はも夜のことごと昼はも日のことごと
>哭のみを泣きつつありてやももしきの大宮人は行き別れなむ

ここからのフレーズで「夜はも夜のことごと昼はも日のことごと」らしい。
どうしてなのか、切り貼り間違いをしていた。

「夜はも夜のことごと昼はも日のことごと」の「はも」
機械的に「あり、共にあり」を代入すると

「夜はも夜のことごと昼はも日のことごと」
=夜+はも+夜のことごと、昼+はも+日のことごと
=夜+あり、共にあり+夜のことごと、昼+あり、共にあり+日のことごと
=夜あり、共にあり、夜のことごと、昼あり、共にあり、日のことごと

これはこれで、なかなかの現代語訳だと思う。
「夜は夜の事々(雑事?雑用?あれこれ?)と共にあり
 昼は日の事々(あれこれ?)と共にあり」
こういう意味だと思う。

しかしながら、原文は「夜+はも+夜のことごと」とある。
「も」の出自は「co- ko- 共- こ-」の接頭辞であるので
「co-動詞/名詞」の意味で話者が書いた可能性がある。
この場合は「こ」が「も」に音韻変化して「co-名詞=も+夜のことごと」であろう。

すなわち
「夜はも夜のことごと昼はも日のことごと」
=夜+はも+夜のことごと、昼+はも+日のことごと
=夜+あり、共に+夜のことごと、昼+あり、共に+日のことごと
=夜あり、夜のことごと(と)共に、昼あり、日のことごと(と)共に

こういう風に訳してやるのが良いのではないか。

次の歌も同様で、文中に「はも」がある。

https://ameblo.jp/kk28028hrk/entry-12478341494.html
>0761 早川の瀬に居る鳥のよしをなみ思ひてありし我が子はもあはれ

> 「早川の瀬」は「急流の瀬」のこと。
> 「よしをなみ」は「~ので」のみ。

> 「急流の川で暮らす鳥には止まるところ(よりどころ)がないように、
> 心細げな我が娘が心配」という歌である。

「はも」機械的に「あり、共にあり」を代入すると
「我が子はもあはれ」
=我が子+はも+あはれ
=我が子+あり、共にあり+あはれ
=我が子あり、共にありあはれ

全体としては
「早川の瀬に居る鳥のよしをなみ思ひてありし我が子はもあはれ」
=早川の瀬に居る鳥のよしをなみ思ひてありし我が子あり、共にありあはれ

これでも良い気がする。
しかし「我が子はもあはれ」とあるので接頭辞として扱って
「我が子あり、共に+あはれ」と訳すべきだろう。
「co-名詞」=共に+あわれ

=早川の瀬に居る鳥のよしをなみ思ひてありし我が子あり共にあはれ

「どうしようもない思いであった我が子あり、あわれと共に」
なんか状況が良くわからない。

上代語「はも」(3)

これらを踏まえて、万葉集の歌にあたってみたい。

・さねさし相摸(さがむ)の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも

・夕さればみ山を去らぬ布雲(にのぐも)のあぜか絶えむと言ひし子ろはも

・防人(さきもり)に立ちし朝明(あさけ)の金門出(かなとで)に
  手離(たばな)れ惜しみ泣きし児(こ)らはも

・春日野の雪間をわけて生ひ出でくる草のはつかに見えし君はも

・ささの葉にふりつむ雪のうれを重み本くだち行くわがさかりはも

・昼はも日のことごと夜はも夜のことごと ← (これはちょっと違う)

・早川(はやかわ)の瀬に居(い)る鳥のよしをなみ
  思ひてありし我(あ)が子はもあはれ ← (これはちょっと違う)

これくらい例を挙げれば、
公理(1)、公理(3)を、規則性法則性を、感じ取ってくれるでしょう。 

http://575.jpn.org/article/174793941.html

>さねさし相摸(さがむ)の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
>   弟橘比売命
>■ 訳
>ああ、相模の野原で火に囲まれた時、
>火中に立って私を気遣ってくださった(愛しい)あなた。
>(どうかご無事でありますよう。) 

>「さねさし」は相模に掛る枕詞
>(”さねさし”は意味もなぜ相模に掛るのかも確実な理由は分かっていません)、
>「相模(さがむ)」は現在の神奈川県(小田原市周辺)、
>「問ひし(とひし)」は見舞った、
>「君はも(きみはも)」は貴方よ(”はも”は強い詠嘆)、
>をそれぞれ意味します。 

ヤマトタケルの妃であるオトタチバナヒメが辞世の句」云々の件は出鱈目だろう。

「問ひし君はも」
=問ひし君+は+も(co- ko-)
=問ひし君+あり+共に・一緒に+あり
=問ひし君あり、共にあり

全体として
・さねさし相摸の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君あり、共にあり

ほぼ現代文で、格別の解説が不要なくらいにしっくり来てると思う。

上代語「はも」(2)

「はも」が文末にある時は「強い詠嘆の意」を表す。意味は「…よ、ああ。」
「はも」が文中にある場合は「上の語を取り立てて強める意」で
意味は「…は。」とのこと。

・文末に用いて、強い詠嘆の意を表す。 訳は「 …よ、ああ。」
・文中に用いて上の語を取り立てて強める意を表す。訳は「…は。」

文末にある時と文中にある時は、分けなければいけない。
確かに動詞が文末にある時と、文頭にある場合は分けて考えるべきですね。
文末の動詞は平叙文で、文頭だと疑問強調感嘆…になる。
正統派のお作法か…その通りだ。

「はも」上代語で、一番古い単語の部類で、
連語で文末では「係助詞は+終助詞も」、文中では「係助詞は+係助詞も」との事。

しかし公理(1)「は=あり」、公理(3)「と、も=共に、一緒に…」と見ます。
特に「と、も」は接頭辞の「co- ko- 共- こー」と、
もともとの「co ko 共 こ」が混在していると思う。

「はも」
=は+も
=あり+共に…「は」を「あり」、「も」を「共に、一緒に…」に置き換え

この「も」が接頭辞の「も」の場合、もともとが「co-」だから
「はも」=「は+も」=「は+co-」と考えられる、接頭辞だから。
ということは「co-動詞、co-名詞」の形の「動詞、名詞」の省略形と言える。

つまり文末に「はも」がある場合は、次の動詞/名詞が省略されている。
省略された動詞/名詞とはなにか。

「はも」=「は+も」=「あり+共に・一緒に…+~」
だから「~」は「あり」を省略した。二度目の「あり」だから省略した。

一方で文中の「はも」は「も」の次に動詞/名詞の単語が続くはずだ、文中だから。
すると文中の「はも」は「も」の次の「動詞/名詞」と「共に、一緒に…」の意味だ。

結論として、文末の「はも」の現代語訳は、
「あり、(共に・一緒に…)あり」で良いはずだ。

文中の「はも」の現代語訳は、
「あり、(共に・一緒に…)+動詞/名詞」となる。

上代語「はも」

https://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%AF%E3%82%82#goog_rewarded
>は-も 分類連語
>…よ、ああ。▽文末に用いて、強い詠嘆の意を表す。
>◆上代語。
>なりたち 係助詞「は」+終助詞「も」

>は-も 分類連語
>…は。▽文中に用いて上の語を取り立てて強める意を表す。
>◆上代語。
>なりたち 係助詞「は」+係助詞「も」

上代日本語(じょうだいにほんご、英語: Old Japanese)とは、
古墳時代頃から奈良時代頃まで日本(特に、都のあった奈良付近)
>で使用されていた日琉語族の言語。のちに中古日本語に発展した。 

>連語(れんご、英: Collocation)とは、一般に、複数の単語からなるが、
>まとまった形で単語と同様に用いられる言語表現をいう。

>広い意味では慣用句も含まれるが、
>通常は文脈によらず一定の意味を持つ一連の語を「慣用句」と呼び、
>それ以外の文法的機能などを示すものを「連語」と呼ぶ。
>たとえば次のような例がある。
>日本語 てはならない・なければならない ことができる かもしれない

「こ=共に、一緒に」は輸入品・借用品

日本語辞書、古語辞典の「こ」には、英独中アイヌ語の様な意味がない。
ないけれども、「こ・たえる、こ・そぐ、こ・ねる、こ・する、こ・づく」
の様な現象はある。

これらの日本語は、製品に例えれば、最終製品に該当する。
「こ・たえる、と・ぼける、ほ・どく…」の最終製品があるのに
それを構成している部品「co- ko- 共- こ-」がない。

最終製品はあるが、製品を構成してる部品がないのならば、
つまりこれらの日本語は輸入品・借用品だと確実に言える。

最終製品のクルマがあるのに、
部品のエンジン、ミッション等がないのと同じだ。

後世の辞書編集者がわからなかったし、古人も使っていた当時から
世界的に共通な「co- ko- 共- こ-」の造語原理を知らなかった。
もし知っていれば古人も造語してたし、受け継いでいたはずだ。
辞書編集者も造語原理を書いたはずだ。

そして最終製品移入が止まれば、それで終わった。
「co- ko- 共- こ-」の造語原理を知らないから、もう自分で造語出来ない。
「co- ko- 共- こ-」による造語作用は続かなかった。

しかし「co- ko- 共- こ-」は、「と、も」=「共に、一緒に…」に
なっていたのではないか。
「と、も」だと格助詞だが「共に、一緒に…」だと副詞だ。

元々「co- ko- 共- こ-」の出自は「共に、一緒に…」だと副詞なのでないか。
そういう意味で先祖返りだ

「co ko 共- こ-」=「共に、一緒に…副詞」だったが、
それが動詞や名詞に付いて「co- ko- 共- こ-」の接頭辞になった。

原因不明だが日本語の場合は「co- ko- 共- こ-」の接頭辞が消えた。
「co- ko- 共- こ-」→「共に、一緒に…」→「と、も」が残った、と思う。

この想像を裏付けるものが万葉集に残っている。
公理(1)「は=あり」+公理(3)「と、も=共に、一緒に」を適用して
裏付けの根拠にしたい。対象は「はも(上代語)」。